下村湖人

田澤の生涯を記した『この人を見よ』の作者

 佐賀県出身の小説家、教師。東京帝国大学を卒業すると母校佐賀中学の英語教師になり、その後は鹿島中学校(現・鹿島高校)をはじめ数々の学校の校長を歴  

 任。教職をやめると作家として執筆活動を進め、『次郎物語』は、ライフワークといえる大作となった。また、田澤の生涯をまとめた『この人を見よ』を著し 

 た。高校時代、1学年上の田澤と知り合い、田澤の考えに賛同すると、後に青年団講習所の所長や壮年団中央協会の理事を歴任する。また、講演や分筆活動な   

 どで青年団を育てる活動をおこなった。

     


田中鉄三郎

田澤が慕った兄貴分

 鹿島藩士田中家の生まれ。幼い頃から、田澤の兄貴分として親しく交流し、藩主直彬の子との交流のなかで、自然と直彬と接するようになり、二人は大きな影響 

 を受けて育った。中学時代には鹿島最初の図書館である藤津郡図書室を一緒につくった。東京帝国大学を卒業して大蔵省に入省、その後は国際金融の分野で活躍 

 し、特にヨーロッパで第一次世界大戦後の混乱する世界経済の再建に貢献する。太平洋戦争後は、佐賀県の育英事業を支援し、1965年には生家を鹿島高校に 

 寄付し、現在は田中記念館六洲荘となっている。


中野万亀

自宅を解放して青年らの教育に努めた

 田中鉄三郎の姉。佐賀県尋常師範学校を卒業すると、佐賀県初の女性正教員となり、小学生を教えた。結婚すると、自宅に中野夜学会を開き、日中に仕事をして

 いる青年らに社会教育を行う。夜学会では万亀が購入した本を使って、政治や経済などを教え、卒業した青年らの中から区長や青年会、消防組合の幹部など、

 地方自治を中心となって動かす人材が出るようになった。義鋪も万亀の姿を見て育つうちに、青年に向けた社会教育の必要性を理解していき、青年団運動への

 原動力へと結びついていった。


後藤文夫

田澤の生涯の理解者

 第五高等学校を卒業後、東京帝国大学を経て内務省に入省する。台湾総督府総務長官、貴族院議員としての活動と同時に、田澤とともに青年団運動を行い、日本   

 青年館理事長を務めた。二・二六事件では、暗殺の対象とされたが留守だったため難をのがれ、直後は臨時首相代理となった。太平洋戦争中には大政翼賛会副総 

 裁、戦後は参議院議員となった。田澤とは、高校時代から生涯の友として親交があり、青年団の活動や政治改革では田澤のよき理解者として相談に乗るなど、

 多くの活動をともにした。 


渋沢栄一

田澤と労資問題解決に努力

 明治・大正期の実業家。国の役人を退官した後、多くの会社や経済団体を設立し、「日本資本主義の父」と呼ばれる。渋沢は現在の都市銀行やガス会社、印刷会             

 社、新聞社など、さまざまな会社の創設にかかわってきた。また、教育事業にも力を入れ、現在の一橋大学や東京経済大学、日本女子大学の創立を支援した。

 第一次世界大戦後、渋沢を中心に経営者と労働者が協力し合うしくみづくりを目指して協調会が設立され、渋沢は副会長として活躍した。また、渋沢は田澤を会

 の常務理事にして、共に労資問題解決のために活動した。  


安積得也

田澤の後継者

 東京都の生まれ。内務省に入り、田澤の後輩にあたる。高知県に赴任していた時に、講演に訪れた田澤とはじめて出会い、田澤は安積を後継者として育てる。

 安積は役人としての仕事をしながら詩や随筆を創作し、母校の小学生をはじめ、いくつかの校歌の作詞をしている。毎月、田澤は安積からの手紙に返事を書き、

 だれにも告げることのできない心情を安積だけに伝えていった。旭ヶ丘公園の田澤像には安積の詩が刻まれている。